Essay
エッセイ|「バッハを辿る」Vol.1 〜バッハとコラール〜
2019年6月1日 @美竹さろん「バッハを辿る」Vol.1 〜バッハとコラール〜
プログラムノートより
プログラム
第2部 コラールの演奏順
来たれ、異教徒の救い主よ BWV599
神のひとり子、主なるイエスよ BWV601
イエスは喜び BWV610
こころよき喜びのうちに BWV608
古き年は過ぎ BWV614
喜びは主のうちに BWV615
バビロンの流れのほとりにて BWV653
私が不安と苦しみにあるとき(入川舜編)
神よ、天の扉、開きたまえ BWV617
イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ BWV639
人よ、汝が罪の大いなるを嘆き、涙を流せ BWV622
――
前奏曲とフーガ ニ長調 BWV532
プログラムノート
新聞の中で、楽しみにしているコーナーがある。読者が投稿する歌壇だ。週ごとに一度、短歌と俳句が選者によって掲載される。そこには様々な場所と時間の中で、何気ない日常の風景が切り取られている。日本人にとっては馴染み深いリズム感をもった世界だが、極度に切り詰められた言葉の背後に隠れている、無限の時間とか、思いの深さというものを感じるとき、自分の感性が日本によって育まれたことを改めて思う。
「うた」という言葉を定義するとすれば非常に広範なものになるだろうが、他者に伝えたいと願ってきた思いが具現化したもの という風には言えないだろうか。「歌」「唄」「唱」「詩」「吟」「咏」「謡」………古来より様々な「うた」が生まれてきたが、その最も強力なパートナーが音楽だった。人々は音楽に「うた」をのせることで、思いを共有する力を拡げていったのだと思う。
宴会の時にうたう歌、狩りの時の歌、結婚をお祝いする歌、吟遊詩人が恋する人に向けてうたうセレナーデ…。何百年もの間そのような歌が歌い継がれ、残ってきた。そして神の存在がまだ当たり前だった時代は、多くの祈りの歌を生み出してきた。教会でのミサあるいは礼拝というものはその土台となり、中世以来バロック期にかけて無数の音楽家たちがそのための音楽を作ってきた。
バッハの作ったカンタータや受難曲、その他多くの声楽曲も、その長い潮流の一点に位置しているといえる。だが彼は、それらの膨大な作品たちを、人びとにとって身近な「うた」を基に創造し、芸術音楽の高みにまで昇華させることで、音楽の領域を推し進めたのだった。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは1685年、ドイツのアイゼナハという小さな町に生まれる。バッハ一族は、その地方では有名な音楽家系であり、父親ももちろん、親戚も何かしらの音楽の職業に関わった人たちであった。末子のバッハは、9歳の時に両親を亡くし、14歳年上の長兄に引き取られて、リューネブルクという街の寄宿学校に入学させられ、そこで学業を積むことになった。この学校を卒業したかは定かでないのだが、恐らく15歳ころから自立して、音楽家として歩んでいったようだ。その第一歩が、アルンシュタットという街でのオルガニスト兼聖歌隊の指導者という職だった。
バッハ18歳。まだ血気盛んな若者は、その地で様々なエピソードを残している。聖歌隊のメンバーのひとり(バッハよりも年上)が指導者の要求するレベルに合わず、怒ったバッハと決闘騒ぎを起こしたとか、後の妻となるマリア・バルバラを教会の礼拝で歌わせた(当時は禁じられた行為だった)など…。その中でも最も有名なものは、当時北ドイツのリューベックという街で、オルガニストをしていたブクステフーデ(1637−1707)の高名を聞き、はるばるその演奏を聴きに400キロの道のりを歩いていったというものである。このために、バッハはアルンシュタット市当局に4週間の「研修休暇」を許されるのだが、ブクステフーデの演奏に感激するあまり、その休暇を無断で3ヶ月以上も引き延ばしてしまったという。
当然、雇い主と折り合いが悪くなってしまったバッハは、その後1年ほどミュールハウゼンという近隣の街の教会オルガニストを務めた後、ワイマールの宮廷オルガニスト兼楽師というポストに、めでたく「昇進」することになった。
バッハにとっては、オルガンという楽器はその初期の活動の柱となるものだった。オルガニストとして楽器に触れる時間が多かったから、そのための音楽を創造するという意欲に駆られる事にもなり、多くのオルガンのための作品が、このアルンシュタット〜ワイマール時代に産み落とされている。また、初期のカンタータのグループもこの時期に集中して作られている。
バッハはこの頃、「整った教会音楽を演奏することこそ私の一生の願いです」というようなことを言っているのだが、オルガンを自在に操る技量を身につけ、それに連なるカンタータなどを創作できる環境を求め、ようやくそれが実現し始めたからではないだろうか。
バッハにとっての「うた」、それがコラールだった。神への賛美を捧げるための賛美歌が世界中無数にあり、現代も生まれ続けているが、その中で、ドイツのマルティン・ルター(1483−1546)がはじめたプロテスタントの教会で歌われているものを、コラールと呼んでいる。英語でコーラスChorusを合唱と言うように、同語源の言葉のコラールもまた、礼拝に参加した者たち全員がともにうたうために、指導者たちによって少しずつ編纂をされていった。ルターの時代から500年を経た今もなおコラールが歌われ、演奏される理由、それは恐らく、その旋律が芸術的に優れた要素を持っていたからだが、それにも増して、バッハという巨人にこの旋律が取り上げられ、体系的にまとめられた(371のコラール集)ということが、コラールたちにとっては幸運なことだったのだろうと思う。
コラールの元は、無数の民謡や中世の恋愛歌、またグレゴリオ聖歌など、バッハのはるか以前から存在していたメロディーであり、それらは宗教、世俗を超えて人びとによって歌われてきたものだった。音楽用語ではこれは
定旋律(カントゥス・フィルムス)と呼ばれる。
定旋律という概念は、中世からバロック時代にかけての音楽には大変重要なもので、同時代に生まれた多くの音楽作品の中に、数多くの定旋律がモチーフとして借用されている。当時の作曲者たちにとって大切なことは、オリジナリティを発揮することではなく、その音楽を聴いた人びとに、過去に聴いたことのある旋律を思い起こさせ、自分の知っている世界と今聴いている世界をシンクロナイズさせることだったのではないだろうか。
コラールは、本来は会衆の斉唱(ユニゾン)で歌われるもので、1500年代前半に印刷された最古のコラール曲集では、歌うメロディーが単旋律の形で記されている。しかし、それが次第に聖歌隊や音楽に教養を持つ人びとのために、多声技法を持つ合唱の形を取るようになっていく。
コラール「来たれ、異教徒の救い主よ」の原曲はこのようなものである。
バッハはこのコラールを、まず4声体の合唱にする(原曲=定旋律を赤音符で示す)。
さらに、「オルガン小曲集」の同曲ではこのようになっている(途中まで)。
さらに、カンタータ第61番と62番「来たれ、異教徒の救い主よ」でも、このコラール旋律が重要な役割を果たしている。
このように、ひとつの単旋律から、バッハは自分のファンタジーを駆使して音楽の巨大な構築物を築くのである。それは、装飾の芸術と言っても良いかもしれない。
だが、バッハにとっては、祈るという行為から生まれたうたの姿を活かしきるという思いが、この種々の作品を生むことになったのではないだろうか。バッハが、自分の独自の音楽をここで追求したというわけではないように思われる。あるのは、その当時まだ民衆にとって一般的だった「神の姿を待ち望む」という思い、それこそ、音楽を通して神への捧げものをするというバッハの姿と重なるように感じられる。もっとも、凡人の目には、バッハを通して神がこの驚異的な音楽を想像しているようで、そこには独自性云々という余地はとうにないのかもしれないが・・・。
各曲解説
≪オルガン小曲集≫ より
オルガンの役割は、教会の行事と切り離して考えることは出来ない。教会のミサや礼拝などで、オルガンはその先導役となる。例えば礼拝の始まる前にオルガンだけで演奏が行われること、これを前奏というが、これは後で会衆によって歌われるコラールのメロディーを用いた即興演奏をすることがバッハの時代は主流であった。
教会のミサや礼拝は教会歴に則って行われる。教会歴とはキリストの生涯の事跡を記念する日を1年の周期の中に定めたものであるが、各々の日曜・祝日ごとに歌われるコラールはそのテーマに相応しいものが選ばれる。教会のオルガニストも、今日は何を歌う ということを承知した上で、そのコラールを会衆の耳に届けるという役割を担っていた。こうして「前奏」のための曲、「コラール前奏曲」というものが生まれた。
バッハはもちろん即興で卓越した前奏曲を演奏していたのだろうが、恐らくそのとき生まれた音楽が、残らないのは惜しいという気持ちにもなったのだろう。
≪オルガン小曲集≫は、そのひとつのカタログであり、「オルガニストが、ありとあらゆる仕方でコラールを展開する手引」(バッハ)が47曲著されたものである。
待降節用コラール
「来たれ、異教徒の救い主よ」 BWV599
≪オルガン小曲集≫のトップを飾るこのコラール前奏曲は、紀元後400年ころより聖歌として歌い継がれてきたもので、最も古いコラールである。もともとカトリック教会で歌われていたものを、ルターがドイツ語に翻訳し、自分の会派の礼拝でも歌えるようにしたもの。バッハはこのコラール旋律を用いて、オルガンのためのコラール前奏曲に様々に変容させている。
高声部のコラール定旋律を装飾する2度のモチーフが、深い瞑想の中の祈りを表している。
「神のひとり子、主なるイエスよ」BWV601
紀元後400年頃の宗教詩を元に、プロテスタント初の女性賛美歌作詞家E・クロイツィガーがドイツ語訳を作った作品。そのメロディーには、世俗歌曲「私はひとりの娘が嘆くのを聞いた」が元となった。
歓喜に満ちた編曲となっているが、コラールメロディーを装飾するモチーフは、旋律の一部から借用され、メロディーとの統一感をもたせている。
クリスマス用コラール
「こころよき喜びのうちに」 BWV608
ドイツのクリスマス・キャロルとして有名なコラール。バッハはソプラノとテノールが、コラールメロディーをカノンで模倣しあっていくように書いた。更に、アルトとバスの3連符による対旋律のパートもカノンを作るようになっている。
「イエスは喜び」BWV610
コラール旋律として最も有名なもののひとつで、バッハは4声コラールを6バージョンも作っている。このオルガンのための編曲では、比較的落ち着いた装飾によって、コラール旋律が聞き取りやすい。
年末と新年用コラール
「古き年は過ぎ」BWV614
極めて半音階的な装飾が全体にわたって支配するコラール編曲で、コラール旋律自体も32分音符の動きによって装飾を施されているため、謎めいた音楽となっている。
「喜びは主のうちに」 BWV615
半終止で終わった前曲と打って変わって、たいへん明確な調性感を持って展開される喜ばしい音楽。このコラールはもともと中世からの舞曲派生で、クリスマスと新年を祝うためにうたわれるものであった。バッハもオルガンの華やかな側面を存分に引き出している。
「神よ、天の扉、開きたまえ」 BWV617
このコラールは、バッハの4声体コラールにも収められていないもので、現在のプロテスタントの賛美歌集にも掲載されていないもの。このオルガンのための編曲によってその存在が偲ばれるのみだが、その装飾は一陣のつむじ風が旋回しながら天から降りてくるようなもので、音楽としてもインパクトのあるものとなっている。
用途不明
「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ」BWV639
オルガン小曲集中、もっともよく知られているコラール前奏曲。全曲中唯一の3声による作品で、各パートが最初から最後までひとつの音楽的役割に徹している。その結果、複雑性は後退し、アリオーソ的な歌謡性に貫かれた音楽が、万人にとって親しみやすいものとなった。
受難用コラール
「人よ、あなたの罪の大いなるを嘆き、涙を流せ」 BWV622
オルガン小曲集の中で規模の大きな作品であり、その装飾も豊かな彩りを見せている。このコラールは受難コラールとして知られ、「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」第2版で用いられている。ゆったりとした歩みの中に数多くの装飾が現れ、教会のステンドグラスに光が差し込んでくるかのような風情を湛えた音楽となっている。
入川舜:私が不安と苦しみの中にあるとき
バッハの「人よ、あなたの罪の大いなるを嘆き、涙を流せ」のオルガンコラールは、定旋律そのものがもはや判別できないくらいにまで装飾を施されてしまっている例だが、このスタイルを参考にして、試作したもの。バッハの音楽を理解するためには、作曲という視点からも探ることが必要と感じ、これからも模索したいと考えている。
”18のコラール”より「バビロンの川のほとりにて」BWV653
18のコラールは、「オルガン小曲集」でのコラールの扱いを更に発展させた世界で、コラールのあるモチーフを対位法的に展開させていく、よりバッハのオリジナルに近い楽曲であり、規模も大きいものが並んでいる。
「バビロンの川のほとりにて」はその3曲目。バビロン捕囚によって祖国を追放されたユダヤ人たちがエルサレムを懐かしむという物語が、ルネサンス時代より多くの音楽を生み出してきたが、バッハの作品は、原型のコラール定旋律の始めの2フレーズが主要モチーフとなり、サラバンドのリズムのうちに様々な調性で彩られていくが、それはオルガンよりは、より簡素な音の楽器をイメージさせる。サラバンドのリズムと、ト長調という調性が、「ゴルトベルク変奏曲」のアリアの世界につながるようだ。
前奏曲とフーガ ニ長調 BWV532
バッハにとって音楽とは、「神への捧げもの」であったことは確かだが、それ故だろうか、彼は音楽の可能性を推し広げることをためらわず、その時代の楽器の演奏技術さえも一新させてしまった。オルガンに関しても同様で、ある時バッハの腕前を聞きつけた名士が、その時代最高の名声を得ていたフランスのマルシャンというオルガニストとバッハを演奏で競わせようと、ふたりによる演奏会を企画したのだが、恐れをなしたマルシャンは、会を待たずに夜逃げして、めでたくバッハの不戦勝に終わった…という逸話が残っている。
この前奏曲とフーガ ニ長調は、バッハの初期を代表する1曲であり、バッハのオルガンに対する野心が垣間見える。その始めに絶え間なく繰り返される上行音階と下降アルペジオからも、オルガンのあらゆる音域を使いこなすという自信が感じられる。若き青年が、ブクステフーデを聴くために遠路はるばる旅をして、その華麗な演奏に感動し、自分もいつかこのようになるんだと決意した姿も重なるようだ。
ここでは「前奏曲」は、来たるフーガの前兆を予感させる悠然としたもので、ジクザグとした動きをしながら次第に降りてくる歩みは、それこそ永遠に続くかのようだ。突如その歩みが減和音によって中断し、レチタティーヴ風のゆっくりとした経過を経て、この前奏曲は終わる。そしてフーガ。その特徴的な動き(レミファミレミファミ・・)からの休止、これが全てを支配する法則となり、展開していく。それはまさにまっしぐらに一直線を歩むフーガであり、山の水源から生まれた一滴の水が、最終的に大河となって海に注ぎ入るかのような歩みである。「バッハは小川(Bach)ではない、大海である」と言ったのはベートーヴェンだが、その言葉を実感できるような音楽だと思う。
2019.6.1
入川舜
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