入川舜 Official Website

Essay

エッセイ|「バッハを辿る」Vol.6〜永遠なる追悼〜

2022年6月11日@美竹さろん「バッハを辿る」Vol.6〜永遠なる追悼〜
プログラムノートより

プログラム
J・S・バッハ(1685〜1750)
パルティータ第4番ニ長調 BWV828
I. 序曲
II. アルマンド
III. クーラント
IV. アリア
V. サラバンド
VI. メヌエット
VII. ジーグ

武満徹(1930〜1996)
閉じた眼

O・メシアン(1908〜1992)
≪前奏曲集≫より”苦悩の鐘と別離の涙”

Intermission

武満徹
遮られない休息
I. ゆっくりと、悲しく語りかけるように
II. 静かに、残酷な響きをもって
III. 愛のうた

M・ラヴェル(1875〜1937)
組曲≪クープランの墓≫
I. 前奏曲
II. フーガ
III. フォルラーヌ
IV. リゴードン
V. メヌエット
VI. トッカータ


プログラムノート

追悼という感情は、様々な芸術のモチーフとなっている。
絵画においても、その感情をもって描かれた作品がどれほどあるだろうか――浅学な自分の知識をもってしても容易に想像のつくところだ。
音楽においてはどうか。主に20世紀になってから、その気持ちが作品に込められた作品を探すのはそれほど難しいことではない。しかし、それ以前の時代は、個人的な思いは、(少なくとも音楽作品名からは)強くは感じられない。「ソナタ」とか、「交響曲」という形式をもって音楽は表現されていたので、全て感情はその内奥に隠されているものだった。
しかし、例えばシューベルトの歌曲のテキストに、どれほど「死」という言葉があるだろう。そもそも音楽自体が生と死を体現してしまっている芸術であるので、何も個人的な思いを入れずとも、自然に表現される世界だったのである。
悼むという感情は、つまりある時期まで全く自然なものであったのだ。20世紀以降その言葉が多くの芸術作品に名付けられたことは、人間の個性が発露するようになったことのあらわれであるのかもしれない。

J・S・バッハ「パルティータ」全6曲は、その音楽的充実度によってバッハの鍵盤組曲中で最高峰の位置を与えられている作品だが、1曲ごとのキャラクターもこれ以上ないほど分かれている。五大陸ならぬ、それぞれが六大陸での最高峰であるというようなものだ。
4番のパルティータは、最も輝かしく、歓喜に満ちたもの。

第1曲は「序曲(オーヴァチュア)」であり、フランス風序曲の定形どおり、付点の特徴的なリズムですすむ部分から、流れるような(さあはじまった!というように)部分へ到達する。
第2曲「アルマンド」は「ドイツ風舞曲」のごとく、中庸な趣をもった性格なのだが、4番のこれは、大規模なものに数えられる。リズムやハーモニーなども相当凝ったもので、バッハはこのアルマンドを恐らく何度も推敲を重ねたのだろう。
そのゆったりとした扇のような動きから、一転してリズミックなクーラント。フランス語で「走る、駆ける」の意を持つので、曲想もにぎやかになる。まるで各声部がかけっこをしているようだ。
次はアリアだが、これは踊りに由来するものではなく、声楽曲からきたもの。踊りの合間に歌でも聞こうか、というバッハのイメージなのだろうか。だが曲想はにぎやかで、手拍子のような合いの手も入ってくる。
この後に、サラバンドがくる。この舞曲は全体の中核を成すもので、重要なものだが、音楽的にはそれまでの曲想から静かなものとなる。単音の密やかな世界。
終盤に近づき、メヌエットが踊られる。サラバンドの緊張を和らげるかのように、軽めにさらっと、という気分である。
最後のジーグは大団円となり、皆が全てを忘れて踊りまくるものだが、これだけ充実した音楽が続くとジーグもそれ相応の風格が必要になる。バッハはフーガ的な手法を駆使して存分に盛り上げていく。

バッハのパルティータは、「悼む」ための音楽ではないことは確かだ。だが、どんな曲であっても、バッハの曲は「心の慰みのため」である。人間が心の安息を願う時、それは究極的にはどんな感情とつながっているだろうか。

この後に続く音楽は、全て20世紀の作品で、バッハの時代とは200年ほどの差がある。
武満徹(1930〜1996)は、日本の作曲家のなかで世界的名声を獲得したひとりであり、日本の音楽(邦楽)が海外で称賛を集めるきっかけをつくった。武満はもともと西洋音楽的な発想で作品を書くことに疑問を持ち、音楽の持続性に主眼を置くよりは、むしろ一音の重みを自分の求める音楽世界とした。
武満のもっとも初期の作品に数えられる「遮られない休息」は、そのような世界を彼がピアノで探求した証である。
第1曲は1952年、武満が当時同人であった「実験工房」での演奏会のために書かれ、後に第2,第3が追加され、現在の3曲セットとなった。
「遮られない休息」というタイトルは、詩人で実験工房の主宰者でもある、瀧口修造の同名の詩にインスピレーションを受け、その印象を書き留めた、と言われている。
瀧口の詩はシュールレアリズムの香りが漂う詩であり、具体的に何を表している、というのは難しいが、その世界観がピアノのとつとつと紡ぎ出される音、響きなどから立ち現れてくる。「ゆっくりそして悲しく語りかけるように」、「静かにそして残酷な響きをもって」など、各曲につけられたイメージも、詩的である。

この時の武満はまだ日本国内においても、ひとりの新進作曲家に過ぎなかったが、1960年代にはすでに「ノヴェンバー・ステップス」などによって、日本の作曲家の筆頭に挙げられるまでになっていた。その後武満は晩年まで創作活動を続けるが、その音楽は当初の非西洋的発想から、次第に西洋音楽との折衷を深めていき、非常に豊穣な響きが作品から聞かれるようになっていく。

「閉じた眼」は1979年に、恩人ともいえる瀧口修造の死に際して、その追憶に(In Memory of)書かれたピアノ曲。タイトルとなった「閉じた眼」は、フランスの画家オディロン・ルドンによる連作絵画で、武満はこれにインスピレーションを受けて作曲した。
この頃の武満は、水や雨への嗜好性を持ち(それはフランスの多くの音楽にも見られる)、小節線に縛られず、柔軟なリズムを持った音楽を多数書いているが、本作品もその傾向が強い。作曲者自身の作品ノートにも、「閉じた眼」の演奏でもっとも大切な要素は、色彩の微妙な変化を、絶えず流動する時間(テンポ)の中で捉えることである、と書いている。
「閉じた眼」は、後にアメリカのシカゴ交響楽団のための作品「ヴィジョンズ」の第2曲目へと改作された。

武満徹より30年ほど先輩のフランスの作曲家オリヴィエ・メシアン(1908〜1992)は、20世紀を代表する音楽家であり、作曲家であると同時に、オルガニスト、神学者、そして鳥類学者であった。
膨大な功績を残し、教育者としても優れ、パリ音楽院の彼のクラスの門戸を叩いた日本人も多い。その音楽は、自身のあらゆる知(音楽理論、カトリック性、鳥類学‥)を作品にすべて集約させるもので、バッハにも通じる百科全書的な作風といえる。
ピアノのための「前奏曲集」は、メシアンが若干20歳の時期の作品だが、この後に続く大作「幼子イエスへの20のまなざし」への萌芽がすでに見られる。すなわち、種々の旋法を駆使した独自の和声や、それまでの西洋音楽には見られないリズム、永遠なるものへの憧憬など。

「苦悩の鐘と別離の涙」は、曲集中規模も大きく、比較的演奏機会も多い作品。常に低音で鳴り続ける単音が鐘を表現し、増4度で上行する和音が別離の感情を表している。鐘の鳴り方は次第に速度を上げ、最大音量となったとき、眼前にある種の満たされた状態(時間)が訪れる。それは、平和、ということなのか、または別離の前の最後の安らぎ、というべきなのか。”大きな感情をもって”と記された箇所を通過すると、また鐘の音が聞こえ、最後には≪さようなら≫と書かれた増4度上行の単音が残される。

モーリス・ラヴェル(1975〜1938)はフランス近代音楽といえばこの人、というほど、現在でも非常な人気を誇る作品を数多く生んだ作曲家である。
フランスのアカデミズムの系譜に連なる存在でありながら、安易な迎合はせず、孤高を貫き、ひとつひとつが極度に洗練された音楽を生み出した。

「クープランの墓」は彼の最後のピアノ曲だが、そのコンセプトはバッハのパルティータ同様「組曲」であり、ラヴェルより200年前の時代、宮廷で演奏された舞曲をまとめたものである。クープランも、バロックを代表する作曲家であり、明らかに先輩大作曲家へのオマージュとして構想されたものである。それに加えて、この組曲を構成する6曲のひとつずつが、当時第1次世界大戦で命を落としたラヴェルの友人たちの思い出に捧げられている。そしてまた、その数年前に経験した母親の死も影を落としている。世界的にも個人的にも暗い時期を迎えていた時に、ラヴェルは今一度自分にとっての規範となる古典音楽を拠り所にした。

「前奏曲」「フーガ」はバロック期から頻繁にセットで作られてきたもので、伝統的作曲の規範が示されている。「フォルラーヌ」「リゴードン」、「メヌエット」はそれぞれ舞曲だが、バッハと照らし合わせて面白いのは、バッハが通常組み込んだアルマンドなどの舞曲はほとんど入っておらず、メヌエットだけがかろうじて共通する程度だ。ラヴェルの場合は、すべてフランス伝来の舞曲であることが、この組曲を作る上で重要だったのかもしれない。ちなみに、フォルラーヌとメヌエットは3拍子、リゴードンは2拍子で踊られるもの。
「トッカータ」は舞曲ではないが、やはり古くから鍵盤楽曲に用いられてきたもので、ラヴェルにおいては、終曲にふさわしく鍵盤の技巧の追求が表されている。

2022.06.11
入川舜

戻る