Essay
エッセイ|「バッハを辿る」Vol.7〜左手のためのシャコンヌ〜
2023年6月2日(金) @美竹さろん「バッハを辿る」Vol.7〜左手のためのシャコンヌ〜
プログラムノートより
プログラム
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻から
前奏曲/フーガ
第1番 ハ長調 BWV870
第3番 嬰ハ長調 BWV872
第7番 変ホ長調 BWV876
第13番 嬰ヘ長調 BWV882
J.S.バッハ=J.ブラームス:シャコンヌ(左手による)
休憩
F.リスト:BACHの主題による幻想曲とフーガ
J.S.バッハ:パルティータ第6番 ホ短調 BWV830
トッカータ
アルマンダ
コレンテ
アリア
サラバンド
テンポ・ディ・ガヴォッタ
ジーグ
プログラムノート
今回のプログラムは、バッハの代表的な鍵盤のための作品が両端に置かれ、2人のロマン派の巨匠がバッハへの敬愛を表した作品が挟まれているという、まさに「バッハを辿る」ようなものとなりました。
ブラームスの名は、バッハのヴァイオリンの作品「シャコンヌ」をピアノのために編曲した人物としてであり、オリジナルの作品を創造したリストとは同列とは言えないかもしれません。しかし、ブラームスは、バッハを常に研究しながら、その作品への深い理解と共感を持ち続けていました。バッハの残した壮麗な音楽を、ブラームスがどのように辿り、思考したか、その跡がこの「シャコンヌ」には表れています。
また、リストはより未来への指向性を示しており、この「BACHの主題による幻想曲とフーガ」からは、半音階の多用によって調性感が曖昧になり、現代音楽にも見られるような不協和な響きが生まれてきます。シャコンヌの明朗さ、確実な世界観と比べると、非常に混沌とした世界ではないでしょうか。その混沌はしかし「現代的」と言う言葉とは違う。現代の感性でいえば、ブラームスの示すバッハ像がずっとスマートに聞こえます。
ともあれ、ブラームスもリストも自身の描く「バッハ」があって、そのバッハの受容の歴史の長さと多様さが感じられることは面白い。バッハ自身の作品の多彩さもそこに加わって、様々な色合いをこのプログラムで出すことができればと思っています。
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻から
前奏曲/フーガ
第1番 ハ長調 BWV870
第3番 嬰ハ長調 BWV872
第7番 変ホ長調 BWV876
第13番 嬰ヘ長調 BWV882
大バッハの残した金字塔のひとつ「平均律クラヴィーア曲集」全2巻には、当時の、そして現在においても音楽の百科全書という以外に適当な言葉が見つからない。全ての調性をカバーする音楽を書く、ということを成し遂げたのは当時彼以外おらず、更に2つもその曲集が作られてしまったのだ。今回は2巻の全24曲(前奏曲とフーガを個別に数えれば48曲)より、上記の4曲を選んだ。
- 第1番ハ長調は、全曲の始まりにふさわしい堂々とした前奏曲と、対照的に諧謔性を持ったフーガ。
- 第3番嬰ハ長調は、同じ音型が繰り返される中で、和音が少しずつ変化していく前奏曲。フーガは、ド、ミ、ソの和音が次々と積み重なっていくように作られたもの。
- 第7番変ホ長調は、パストラル調ののどかな調べが全体に支配的な前奏曲と、ホルンによって吹かれるようなテーマが印象的なフーガ。
- 第13番嬰ヘ長調の前奏曲は、2つの弦楽器によるインヴェンションといえるだろうか。付点のリズムが特徴的。また、フーガもトリルから始まる珍しいものである。
J.S.バッハ=J.ブラームス:シャコンヌ(左手による)
「シャコンヌ」というタイトルは、現代ではバッハのそれをほとんど指しているようだが、もともとスペインなどで1600年ころから盛んに踊られていた舞曲であり、「チャコーナ」とも言われる。
舞曲の興隆に伴って、数多くのシャコンヌが音楽作品として作られたが、なぜバッハのシャコンヌが突出して知られているかというと、この曲の長大さ、そして深さが、もはや舞曲であることを超えて、バッハ以後の音楽家、いやすべての人間の心に訴えかけるものであることにほかならない。
ヴァイオリンの無伴奏で奏されるこの曲は、8小節の短いフレーズが32回繰り返されるという構成となっている。だが実際にお聞きいただくと、とてもそのような単調なものではなく、綿密な計画性を持って組み立てられていることがお分かりになると思う。
聞くための簡単なガイドとしては、16分音符のなだらかな動きから32分音符の音階に細分化されていく部分(32回目のうち、4〜10周目)や、アルペジオの続く部分(12〜15周目)、そして、ちょうど中盤に差し掛かった頃、短調から長調へと音楽は変化し、しばらく晴れやかな光が差し込んでくるようなセクションとなる(17〜26周目)。輝かしさが頂点に達したところで、また短調に戻り、今度は奈落に落ちていくかのように終結までの歩みとなる。
このように、ひとつのドラマツルギーや、永遠の自然の摂理、ともいえるような迫真性がこの曲にはある。
ピアノの編曲版については、多種のものが作られたが、現在でもなお頻繁に演奏されるものは、ブゾーニによる編曲と、ブラームスによるものではないだろうか。ブゾーニ版はまことに華麗な編曲だが、すでに壮大なものである原曲を、更に重厚なものに仕立て上げたもので、カーネギーホールで弾くのには良いかもしれない。サロンでは、ブラームスのシンプルな編曲は、親しみやすさも感じられて良いと感じる。ちなみに、この左手のみの編曲は、ブラームスの生涯の友だったクララ・シューマンが右手を痛めた時に贈り物として編まれたそうである。
F.リスト:BACHの主題による幻想曲とフーガ
1848年に、リストはドイツの地方都市ヴァイマールの宮廷楽長となる。それまでパリを拠点に行っていたコンサートピアニストとしての活動は退き、オーケストラの指揮、そして作曲へと活動の重点を置くようになる。
かつて、バッハもそこで音楽活動の拠点を定めた地で、リストも巨匠の作品を研究し、オルガンの作品などピアノのために編曲する中で、自らも2つの重要なオルガン作品を生み出した。そのひとつが、
「BACHの主題による幻想曲とフーガ」である。
バッハのメロディーが用いられているわけではなく、ドイツ音名でのB-A-C-H――シb、ラ、ド、シ♮が、全体の土台となっており、常にこの音型が様々なかたちで登場する。主題が執拗に積み重ねられていく世界は、著しく不協和で調性感も薄い。フーガも、厳格な構成ではなく、リストのフィーリングによって自由に展開していくものである。
このオルガン曲を、後の1870年(その当時はローマに居を定めていた)、ピアノのために作曲家自身によって編曲されたものが、本日お聞き頂くバージョンである。
リストほど、同時代の様々な音楽を取り込み、自分のスタイルへと吸収した人物はいない。ベートーヴェンや、ベルリオーズやショパンも、リストの音楽の中には混在しているように感じる。その分、何が「リスト的」というのか定義は難しい。ただ、この「幻想曲とフーガ」においても、まずオルガンの響きがあった上での、ピアノへの移植であったということが、大変に納得させられる要素と思う。リストにとっては、ヨーロッパ中を旅行する中で出会った多種多様な音楽の響きが、そのまま自分の音楽へと変容していったのではないだろうか。
J.S.バッハ:パルティータ第6番 ホ短調 BWV830
6つのパルティータは、バッハの鍵盤楽器のための組曲の中では、最後に作曲されたものであり、バッハの音楽の洗練も、最高の段階で示されているものである。
1曲毎に、それぞれ異なった味わいを持っているのもパルティータの特徴であるが、曲集の最後を飾る
第6番ホ短調は、最もバロック的な佇まいをしているように思われる。鍵となる言葉としては、複雑、デフォルメ、いかめしさ…などだろうか。
大きな分散和音と、それに続く2度下降(ため息のモチーフと呼ばれる)によって開始される
トッカータは、中間部で主題のモチーフが対位法的に展開されながらも、いつしか冒頭への再現が迫ってくる。
アルマンド(ここでは
アルマンダ、と女性形で付けられている)は、優美な味わいを持つが、同時に付点のリズムによっていかめしさも併せ持っている。
コレンテ(クーラント)も、常に2声のパートが噛み合わないリズムを持ち、他の組曲にある同曲で感じられる陽気さは影を潜めている。
アリア(エール)は「歌」と訳されるので、直接舞曲とは関係がない。物悲しい旋律がリュートなどの伴奏によって歌われるイメージだろうか。全曲中でほっとさせてくれる部分。
サラバンドは、全曲の中核を成し、荘重なゆっくりとした舞曲だが、この6番でも過度ともいえるほどの装飾を施された仕様が、深みを超えてグロテスクささえ感じさせる。リストの受けた影響というのはこのような部分なのだろうか。
テンポ・ディ・ガヴォッタ(ガヴォットのテンポで)は、舞曲ガヴォットのリズムを踏襲してはいるが、一見ジーグのような味わいを持っている。終曲の前触れ、というところだろうか。
ジーグは、やはり組曲をしめくくるための賑やかな踊りだが、ここでは重々しいフーガのスタイルで書かれている。もはや舞曲すらも、バッハの対位法の厳格な書法に飲み込まれ、娯楽というより、真面目で深淵な世界がそこには広がっている。
2023.06.02
入川舜
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