Essay
エッセイ|音楽の価値について
J.S. バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
CD付録エッセイより
ディスコグラフィ
音楽の価値について
音楽は「空気」のようだ。
万人にとって空気が平等に分け与えられているように、音楽は誰もが享受できる世界である。皆が空気を吸って吐いているように、音楽は聞かれている。現代では、映画館に行っても、飲食店に行っても、必ず音楽がBGMとしてかかっている。音楽は何か雰囲気を形つくれば良いものと考えられているのだろうか。
空気がなくなったら、人間は死ぬ。音楽がなくなっても、人間は死なない。イヤホンやITunesがなくなったら、人間は最初のうちは戸惑うかもしれないが、やがてその世界に慣れていくだろう。
空気のように、人間の生活に取り込まれているものなのに、実際は必要不可欠のものではない――生活の装飾物となっているもの。音楽について抱かれているイメージとは、そのような実態のなさや、曖昧なものである。そのイメージは、人間の世界に肯定的に作用して、確かに音楽を聴く人の数を広めはした。しかし、音楽の価値感というものは、果たしてそのようなものなのだろうか?
「聞く」と「聴く」というふたつの言葉を調べてみよう。国語辞典を引いてみると、「聞く」よりも「聴く」のほうが、より集中度の高い行為と書かれている。「聞く」は、例えば話を聞く、ニュースを聞くなどだが、音楽には「聴く」の方を書く方が多いように思う。
一方で、「聞く」には理解するというニュアンスが含まれている。話やニュースは、理解しなければ「聞いた」ことにならないからだ。それに対して、「聴く」は、耳をなんとなく傾けている、というような状態だろうか。
英語の同義語にはlistenとhearがあるが、こちらは違いがはっきりしている。listenが「聞こうと努力する」意味を持ち、hearはもっと無意識的に「耳に入ってくる」ことである。
音楽は「聴く」だけでなく、「聞く」ことで明確なイメージを持ち始めると思う。たとえそれがわからなくとも「聞こうと」すること。その時、音楽は無色透明な空気のような価値を脱する。それは、生と死、自然、人間の全ての感情、あるいは文学や絵画、さらには科学的な側面とも通じる非常に多様な世界を現す。
以前は、音楽を聴く人は今日ほどではなかった。メディアというものがなく、いつでもどこでも、持ち運べたりするようなものではなかったからだ。だが逆に、音楽を聴くことは貴重な体験だったに違いない。ひとりの人間の世界観を、一新してしまうほどのこともあった。音楽を聴く人の数は少なかったが、音楽を愛する人は多かった。
多くの人たちが、以前よりも音楽に容易に触れられるようになった、ということは、確かに人間にとって音楽の価値感を高めたのかもしれない。スイッチを入れさえすれば、アプリを起動させさえすれば、現在ではほとんどライブと同じ音質で、聴きたい音楽が聴けるのだから。
思えば私自身も幼少時、音楽をそのように聴いていたから、そこから恩恵を受けていた。
だが、容易に触れられるほどに、音楽がコンビニエンスストアの商品のように消費されるものになったということは、一方で音楽が人間のニーズに応えすぎるものになった、ということでもある。そうすると、音楽「自体」の重みは実は無くなっていってしまう。
「ゴルトベルク変奏曲」は、容易に触れられるような音楽とはいえない。しかしそれは、音楽自体の高み、深淵に弾き手や聞き手を連れて行ってくれる存在である。本当の音楽の愛好家に向けられた作品であるから、聞き手も限定されるだろう。この録音を出版することに何か意味を付け加えるとすれば、「音楽の本来持っている価値を改めて問いなおすこと」に、つながってゆくことを願うということだ。
2018.12
入川舜
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