Essay
エッセイ|J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988 解説
J.S. バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
CD解説より
ディスコグラフィ

バッハの人生は、音楽家としてより良い地位を求めて、ドイツ国内を移動するものであった。年齢とともに、バッハの名声は高まってゆき、地位も俸給も上がっていった。しかし、同時代のヘンデルやテレマンの受けていた世界的な評価に比べれば、バッハの評判はドイツ国内に限定されたものだった。バッハは家族を養っていくためにも仕事をこなさなければならなかった。彼の定住した街として著名なものは、20代を過ごしたヴァイマール、30代前半より移り住んだケーテン、そしてライプツィヒの3つである。
ライプツィヒは、バッハが38歳からその死まで生活をした土地である。教会の附属学校の音楽監督として学生たちの指導をしながら、作曲活動に精を出していた。その主軸はカンタータをはじめとする教会音楽だったのだが、次第にこれらはほとんど書かれなくなる。これはバッハが教会の組織と距離を置いたためなどと言われているが、その一方で器楽のための作品――それらは専ら愛好家の楽しみのために供された――が、また生み出されるようになっていくのである。
「ゴルトベルク変奏曲」は、その時期、バッハが50歳ころの作品である。当時バッハの身の回りの世話をしてくれていた、カイザーリンク伯爵に宛てて作曲された。
フォルケルの「バッハ評伝」には、以下のようなエピソードが書かれている。
…不眠症に悩まされていたカイザーリンク伯爵は、眠れない夜に聴く音楽として、「穏やかで、いくらか快活な性格を持ったクラヴィーア曲」を、バッハに書いてはくれないかと頼んだのだった。彼は、主題の基本的な構成が繰り返される、変奏曲がこの依頼には良いだろうと思い、腕をふるって作曲した。そしてこの変奏曲は、伯爵お抱えの音楽家であったゴルトベルクによって、しばしば演奏されたのだった。...フォルケル「バッハ評伝」
真実かどうかは議論の余地の残されているものだが、少なくとも、バッハの人柄がにじみ出るエピソードに違いない。伯爵の驚いた顔が目に浮かぶ。まさか1時間に及ぶ変奏曲になるとは思いもしなかったろう。ただし、バッハはあくまで真面目に伯爵の要望に応えたのであり、ベートーヴェンの同規模の変奏曲のような悪ふざけ、皮肉趣味とは違っている。そこには「穏やかで、いくらか快活な性格を持って」、ヴァリエーションが絶えず展開されているのだ。
そして現在も、私たちはこの変奏曲の「音楽の楽しみ」に心ゆくまで浸ることができる。それは300年前からちっとも変わらないものではないだろうか。
ゴルトベルク変奏曲の構成は、
アリア ―― 30の変奏 ―― アリア
という、極めて単純なものである。
冒頭の「アリア」は、全30変奏の根本となるものだ。
何が、アリアを根本たらしめているのだろうか?それは、アリアの「バスの進行」にある。
シンプルな8小節のフレーズが4つ置かれるもので、アリアの美しい旋律を、いっそう引き立たせていると言っても良いだろう。
アリア以下の、30の変奏は皆、このバスを土台に作られている。
言い換えれば、このバスラインは、バッハのどのようなアイデアにも耐え得る懐の深いものなのである。複雑な対位法によって、「本当にすべてこのバスラインを踏襲しているの?」と聞いている人は思われるかもしれないが。
変奏の構成には、精緻な仕掛けが施されていて、まず2部構成として15の変奏2つに分けられる。16番目の変奏にバッハは「序曲」と名付け、第2部のはじまりとしている。
更に、3つの変奏ごとにグループをつくり、合計10のグループが生まれる。各グループの3つ目にはカノン(対位法による音楽:同じメロディーを時間差で歌っていく。「かえるのうたがー」をカノンで歌ったことはあるでしょう)が置かれ、第3変奏では<同度のカノン>、第6変奏では<2度のカノン>、第9変奏は<3度のカノン>・・・と、追いかける声部が1度ずつ音程を広げていく。
10番目の第30変奏では、バッハはカノンではなく、<クオドリベット>という名前をつけた。同じメロディーを繰り返すカノンではなく、2つの異なったメロディーが、4声部で展開されている。バッハは単に<Quod libet>(自由に)という言葉しか残さなかったが、全体の総仕上げのような役割を果たしている。
最後に、冒頭のアリアが繰り返されて、この変奏曲は終わる。航海の果てにたどり着いた場所が、出発点の港であったというようなものだ。しかしその港は、最初に見た時とは別の見え方で、この航海を追った者の前に現れるのである。
2018.12
入川舜
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